僕がガンジーを超えた夏

ガンジー、マザーテレサ、ナイチンゲール。

 

彼らはいわゆる聖人のカテゴリーに属される偉人であるが、彼らをボウルにぶち込んでかき混ぜたら一体どうなるだろうか。

 

攪拌された偉人たちはひとつに混ざり、「おいかわ」ができる。

 

 

 

豚肉、にんじん、じゃがいも、そしてルーを鍋に入れ、弱火でじっくりコトコト煮込んだら何ができるだろうか。

 

当然であるが「おいかわ」ができる。

 

 

 

優しい、朗らか、穏やか、温かいを辞書で調べたら「おいかわ」と出るくらい、僕ほど温厚な人間はいないと思っている。

誰に対しても分け隔てなく接し、爪や牙を見せたことは一度たりともない。

そんな生きる人間国宝と呼ばれる僕だが、過去の偉人を超えるほどの聖人になったのは中学の頃からだろうか。

 

 

 

 

 

ーーーそう、あれはある夏の日のことだった。

 

 

 

先生「はーい、じゃあプリント配りまーす」

 

先生は慣れた手つきで分厚く束になったプリントを扇状に広げ、人差し指を上下に揺らしながら僕たちの人数を数える。

そして数え終えた先生は、数枚のプリントを先頭に座る生徒に渡していった。

 

生徒はプリントを1枚取り、後ろへ振り返って次の生徒に手渡す。

受け取った生徒はまた1枚プリントを抜き取り、後ろへ振り返る。

 

 

 

その実に見事で鮮やかな連携プレーが僕は好きだった。

プリントは華麗に宙を舞い、ヒラヒラと生徒たちの手に渡っていく。

バケツリレーを彷彿とさせる受け渡しに、何か芸術染みたものを感じていた。

 

そしてただプリント配りの様子を見るのが好きだった僕は、いつしかそのリレーの一員として参加することに強い誇りを持って臨んでいた。

いかに滑らかに腰を回転させ、ロボットアームのような精密さで後ろの生徒にプリントを手渡すことに、僕は学生時代の全てを注ぎ込んでいた。

 

大切なのは無駄な動きをどれだけ減らせるかである。

前の生徒から受け取る時、自分の分のプリントを抜き取る時、後ろに振り返って渡す時。

1つの動作が少しでも遅くなると連鎖的に増幅していって、結果的に大きなタイムロスに繋がってしまう。

フィギュアスケートのように、一つ一つのきめ細やかな所作が大事なのだ。

そう、僕はすっかりこのプリント配りというものの虜になっていた。

 

こうして僕は日々訪れるプリント配りに全身全霊で挑み、徐々にその精度を上げていく快感を味わっていた。

勉強もスポーツもからっきしな僕だったが、この時だけは輝くことができた気がした。

「学生時代打ち込んでいたものは?」と聞かれれば、胸を張って答えられるほどの情熱を注ぎ込んでいたのである。

 

そんなある日だった。

 

 

 

 

 

「おいかわくん、プリント配るの早いね」

 

いつものように千手観音のような動きでプリント配りに躍起になっていると、後ろに座る彼女はそう言って僕を笑った。

クシャッと潰れた顔、口元からチラリと覗かせる八重歯。

 

その顔に見惚れた僕は思わず力が抜けてしまい、プリントを床に落としてしまった。

バサッと乾いた音が教室にこだまする。

 

「もう〜、何やってるの」

 

彼女は悪戯な笑みを僕に向け、眉毛をハの字にして再び笑った。

乱雑に落ちたプリントを二人で拾い、時々顔を見合わせて吹き出した。

そう、何気ない日常が彼女によって色鮮やかに彩られたのだ。

 

 

 

プリントを受け取り、1枚抜き、後ろを向いて手渡す。

日本に生まれた学生が幾度となく経験してきた単純作業。

退屈だっただろう、無駄に感じただろう、「データでよこせやアホ」と思っただろう。

 

だが、僕にとってプリント配りは学校生活のすべてだった。

そしてそのプリント配りは、彼女によって新たなステージへ突入した。

 

「さっきの遅いかも」

「今のは...うん、合格!」

 

彼女が笑う。

彼女に悟られないよう、照れた顔を隠しながら笑ってみせる。

 

そんな甘酸っぱい時が流れる毎日のプリント配りを僕は楽しみにしていた。

振り返るとそこにはいつも彼女がいて、僕にニッと屈託のない笑顔をみせてくれた。

決して彼女の笑顔が見れるからという疾しい理由でプリント配りを好きになったのではない。

いかに精密かつ俊敏なプリント配りができるかというところに、この上ないエクスタシーを感じたのだ。

 

でも、プリントを受け取る彼女の瞳には、僕と、丸いゴシック体まみれの連絡だよりのどちらが映ったのだろうか。

自問自答を繰り返していると、悪戯に時間は過ぎていった。

 

 

 

 

 

しかし、そんな楽しい学校生活に事件が起きた。

 

 

 

先生「はーい、じゃあプリント配りまーす」

 

先生はいつものようにプリントを扇状に広げ、生徒の数を数え、先頭の生徒に手渡した。

僕は自分の順番が来るのをまだかまだかとヨダレを撒き散らしながら待っていた。

腰や腕の関節には潤滑油が巡っており、スムーズに動作する準備は整っていた。

 

 

 

バケツリレーが今日も始まる。

彼女の笑顔が見れる。

 

期待に胸を膨らませ、頭の中で何度もイメージトレーニングをした。

数秒という限られた時間の中で、僕は彼女に気の利いた会話ができるようにパターンをいくつも考えた。

まるでそのプリントがアイドルの握手券かのように思え、僕にとっての「連絡だより」は引き出しの中にグチャグチャに突っ込んでいい代物ではなくなっていた。

 

徐々にプリントの擦れる音が大きくなる。

リレーは順調に行われ、ついに僕の番が回ってきた。

 

前の生徒が振り向き、こちらへプリントを差し出す。

僕はその七色に輝く握手券を受け取ろうと......した......のだ......だ、だ。

 

 

 

前の生徒「ウェーイwwwww」ヒョイッ

 

 

 

 

 

......?

 

 

 

 

 

何が起きたのだ?

 

 

 

手元にあるはずのプリントがない。

僕は首を上に曲げ、視界を上にずらす。

 

すると、プリントは高いところでヤツの手に吊るされていた。

もう一度そのプリントを取ろうと腕を伸ばす。

 

 

 

前の生徒「ウェーイwwwww」ヒョイッ

 

 

 

 

 

......?

 

 

 

 

 

事態が理解できない。

一体何が起きているというのだ。

 

上空にあったはずのプリントが突如として消え、今度は視界の下の方に胃もたれしそうなほど丸いゴシック体が見えた。

 

 

 

 

 

ーーーそうか。

 

何度かヤツとの攻防戦を繰り返していく中で、ようやく事態の深刻さに気づいた。

ヤツは僕がプリントを受け取る直前にヒョイっと奪い上げ遠くにやるのだ。

そうして僕がオロオロする様子を高みから見物して嘲笑っているのである。

 

僕は焦った。

僕の握手を待つ彼女、いや握手はしないのだけれど、とにかくプリントを待ち侘びている彼女をこれ以上待たせるわけにはいかない。

 

それにだ。プリント配りのこのプライドが許さない。

僕は全身の関節を外し、腕を触手のようにうねらせる。

薄ら笑みを浮かべているヤツの目を追い、次どのポジションにプリントをやるか予測する。

瞳は蛇のように細く切長になり、腕はタコのように宙を踊り狂った。

 

 

 

今だッ!!!!!

 

僕はヤツの動きを完全に読み切り、先手を打とうとした。

待っててね、今プリントを渡すからーーー

 

 

 

先生「おいかわ!!!!!お前何ふざけているんだ!!!!!」

先生「ふざけてないでとっとと配れ!!!!!」

 

 

 

 

 

えっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっ。

 

 

 

先生先生、ちょっと待ってください。

いや、これは違くて、その、コイツが、その、プリントを、僕のプリントを、僕が彼女の手を握手する、えーと、そうじゃなくて、僕のそのプリントが、コイツのせいで、えっと、えっ、その、違うんです。僕が、僕が悪いんじゃくて、その、コイツが僕のプリントを渡さなくて、えっと、あの、それで僕は何も悪いことして、悪いことしてない、してなくはないというか、そもそもコイツがふざけてるから、えっと、待って、違うんです、コイツがバカだから、あ、コイツあれですよ、ウンコ漏らしたんですよ。ウンコマンだ、ウンコマンなんですよ。ウンコがえっと、いや、ウンコ関係なくて、コイツ僕のプリントをヒョイって、ヒョイってやって、えっと、それで、とにかく今回においては、僕じゃなくて、コイツが悪いんd

 

先生「言い訳はいい!!!!!後ろがつかえているだろ!!!!!」

 

 

 

そうだ、配らなければ!

僕はヤツからプリントを取り上げ、すぐさま後ろを振り向く。

 

 

 

しかしそこには、僕が見たかった彼女の表情はなかった。

ただこちらを見て、憐れんでいるというか、呆れているというか、軽蔑した目を僕に向けていた。

 

ようやく状況を察した僕は、彼女に「ごめんね」と伝えてプリントを渡し、再び前を向いた。

視界にはヤツの顔があり、何だか申し訳なさそうな顔を浮かべていた。

 

腹の中では、焦り、困惑、恥が混ざり合う。

そして、マグマのように煮えたぎった怒りがボコボコと胃を逆流し始めた。

 

ヤツは僕に何か言っているようだが、耳には何も入ってこない。

いや、正確に言うと蝉の音のようなやかましさが鼓膜をつん裂いていた。

だがヤツの口の動きを観察すると、「ごめんね」と言っているような気がした。

 

 

 

ごめんね...だと?

僕はお前のせいでこんなに酷い目に遭っているんだ。

ごめんね...そんな言葉で僕がお前を許せると思うのか...?

そんな言葉で...そんな程度の言葉で...

 

 

 

「......僕の方こそごめん」

 

 

 

自分でもなぜこんな言葉が口から出たのかわからなかった。

何をどうしたら僕が謝る理由が生まれてくるのだろうか。

 

僕がタコみたいな動きでヤツを威嚇したのが悪かったのか。

いや、蛇か、蛇の目がいけなかったのか。

確かにあの目で睨まれでもしたら背筋が凍ってしまう。

 

ん?というか目が蛇で腕がタコなんて、化け物じゃないか。

そりゃ先生からしたら僕がふざけているようにしか見えない。

あ、そうか。僕が化け物に見えたから彼女は僕を蔑んでいたのか。なるほど。

 

すべてに合点がいった。

そして僕はヤツに謝ったことで心の広さが太平洋を越え、心の深さがマリアナ海溝を越え、人徳がガンジーを超えた。

何が起ころうとも、僕は表情ひとつ変えずにただニッコリと微笑む優しい化け物になった。

 

 

 

それからまもなくして席替えが行われ、彼女にサヨナラとだけ言って僕たちは離れ離れになった。

あれだけ闘志を燃やしていたプリント配りもいつしか「くだらねぇ」と斜に構えるようになり、連絡だよりはクシャクシャになって引き出しの中の宇宙を彷徨っていた。

だが僕の心の奥底では、ガンジーにも負けない慈悲の念が今も燃え続けているのだ。

 

 

 

 

 

【あとがき】

これ全部作り話なんでガンジー超えてません。

冷蔵庫のプリン食べられたら普通にキレ散らかします。