静かな夜に灯る殺意

6月になった。

 

空が腹を下し、アスファルトを強く叩く音が耳に入るたび、少しずつ夏の影が見えてきたんだなと思う。

 

外が暑いと家は寒く、反対に外が寒いと家は暑い、北半球と南半球みたいな現象が起こっている4畳半の一室も、そろそろ外界の暑さに耐えられなくなっているようだ。

 

一歩家を出れば天から降り注ぐ白色に網膜を焦がされ、照り返すあらゆる光線に肌身を焼かれる。素晴らしいじゃないか。

 

このブログを端から端まで舐め回すように見ている読者にとっては「また夏の話かよ」とウンザリしているかもしれないが、改めてもう一度言おう。

 

 

 

僕は夏が好きだ。

 

肌身が焼き焦がされようが、汗やら何やらが体にねっとりと纏わりつこうが、その全てを愛している。

 

巷では男女が付き合ってから3ヶ月、6ヶ月、9ヶ月と3ヶ月刻みに経過し、世界のナベアツが狂う周期と重なるように倦怠期というものがやってくると囁かれている。

 

彼女がいた試しのない僕からすると何のこっちゃわからない話なのだが、仮に僕と夏とが相思相愛で付き合っているとすれば、かれこれ22年続く熟年カップルと言えるだろう。

 

倦怠期などというくだらない時期は今の今まで1つもなく、誰がどう見ても「あの夫婦はずっと仲の良いアツアツ夫婦ですね」なんてウワサされるほどに、2つの意味でベタベタアツアツなのだ。

 

 

 

そんな夏を、彼女を僕はいつまでも愛している。

1年に数ヶ月しか会えないが、こんな生活が永遠に続けばいいと、そう願っていた。

 

しかし、そんな儚くも尊い理想的カップルの関係を、ある一匹の来訪者によってメチャクチャにされたのだ。

 

 

 

 

 

蚊である。

 

 

 

 

 

夜、いつものように寝ていた時のことだった。

 

その日は昼寝をしてしまい、あまり寝つけない時をベッドの上で過ごしていた。

 

靄がかる眠気を探しながら針の糸を通すように眠りに集中するが、それがかえって意識を尖らせ、睡眠という本来の目的から遠ざかってしまう。これが油田ならばどれだけ幸せだろうかというくらいに、ボコボコと溢れ滲み出る思念に苛まれていた。

 

それでも残酷なことに時間は止まってはくれず、針の音が小さくこだまする闇の中で、独り奮闘していた。

 

 

 

 

 

そしてその中で度々やってくる、尿意。

 

僕は睡眠中、膀胱があり得ないほど縮小する。端的に言うとジジイの膀胱なのだ。その貧弱な膀胱が尿意のサインをこれ見よがしに激しく脳に送り、意識はさらに鋭くなる。

 

 

 

仕方がないので、トイレに向かうことにする。なるべく体に力を入れず、ゾンビのようにだらんと四肢を動かして向かう。少しでも眠気が逃げないように、その細く脆い糸を切らさずにゆっくりと向かう。

 

 

 

そしてトイレの電気をつける。

 

 

 

覚醒。いい加減にしてくれ。

 

 

 

網膜に飛び込む致死量のLED。当然瞳孔は猫のように鋭く尖り、意識も尖り、糸は切れるを通り越して消滅した。

 

それでも目を固くつむり、眠気を呼び起こし邪気を払うように排尿する。側から見ると実に滑稽である。

 

 

 

そうしてヨイコラと床に舞い戻り、再び睡眠の型を作り、仰向け、横向き、うつ伏せの型をローテーションし、ベッドの上でトルネードを繰り出す。

 

そうして実に空虚で滑稽な時を過ごし、思いつく限りの睡眠の術を試し尽くした僕は、眠気を探し求めることにほとほとウンザリし諦めかけていた。

 

 

 

だが皮肉にも、寝ることを諦めかけた途端に眠気がじんわりと体を包み込み始めたのだ。

 

こだまする針の音が徐々に小さくなり、頭に重く、しかし心地良くのしかかる睡魔に体を許す。意識と無意識の境界線が滲み、尖る思念が弛緩し、その全てが混ざり合ってぼんやりと外界から遠ざかっていく。

 

 

 

この瞬間ほど気持ちの良いものはないと思う。

 

ワインを口の中で転がし唾液と混ざり合わせて風味を楽しむように、睡眠もまた頭の中で転がして、その味をじっくりと妖艶に楽しむのだ。

 

 

 

ようやく眠れる。

 

迫り上がる睡眠のオーガズムを感じ、深い呼吸に切り替わる。

 

 

 

その刹那、ヤツが耳元で囁いた。

 

 

 

 

 

プーン

 

 

 

 

 

殺す。殺さなくては。

どこだ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。

 

全身に巡る血液が物凄い勢いで沸騰し、胃液が逆流して口内が酸っぱくなる。向こう側に逝っていた意識を鷲掴みにしてこちらに引っ張り、こよりのように捻り鋭く尖らせる。瞳を蛇のように細くし、眼球をぎょろぎょろと動かして一寸にも満たない生命体を血眼で探す。

 

人がようやく眠れるか眠れないかの瀬戸際でよろしくやっていたというのに、気の抜けたふざけたHzで覚醒させられなければならないストレスったらもうない。ヤツは弱く醜く愚かな生物であり、せいぜい人間の耳元で喚くか痒みを与えることしかできないのだ。

 

先ほどまで闇であった部屋がスイッチ一つで煌々と輝き出す。それはルパンがサーチライトで照らされる光景と酷似しており、ヤツを見つけ出す絶好の環境が整った。

 

 

 

というかわざわざ耳元まで飛んできて羽音鳴らす必要なくない?それやって人間が憤慨した結果、お前に何のメリットがあるの?ないよねメリット。血は吸えなくなるわ死亡リスクは格段に増すわでいい事ひとっつもないよね。

 

本来の目的見失ってんだよ。食事優先しろよ。そんで済ませたらとっとと帰れよ。百歩譲って血を吸うのはいいよ。でも羽音は余計すぎるだろ。あれか?メインクエスト終わってもサブクエスト達成するまでゲーム終えられないヤツか?「人間を起こし1時間殺されるな!」とかそういうクエスト受けてんのか?いや命かかったゲームでそんなの受けんなよ。

 

じゃあそのクエストの報酬は何だよ、教えてくれよ。羽音でいたずらに人間を呼び起こしてそれが達成できた暁に、お前は何を得るんだよ。名声か?名声なのか?蚊は人間をブチギレさせた回数によって地位でも決まんの?

 

 

 

「俺人間20回起こしました〜wwwwwあいつらのキレた顔マジでおもろいwwwwwそんなに眉間に皺寄せても見つかんないっつーのwwwww鼻息フガフガ目バキバキでワロタwwwwwおーい見えてますかーwwwww」プーン

 

「お前20回くらいで何イキってんの?wwwww俺なんて100は超えてるわwwwwwいや実際は200くらいかもしんねぇけど、やりすぎて数えんのめんどくなってやめたわwwwww」プーン

 

「お前ら人間憤慨回数マウントダサすぎて見てられんwwwwwえ?俺?いや別に大した事ないけど、500回くらい?wwwwwでもこれ回数じゃないから、一人の人間をどのくらいブチギレさせるかの方が大事だからwwwww」プーン

 

「は?お前らザコすぎwwwwwちょっと暇つぶし程度に人間の血ぃ吸ってくるわwwwww」プーン

 

うるせぇうるせぇうるせぇ。お前ら全員潰してやる。

 

 

 

あっ、見つけた。

 

ベッドに面した壁の隅に、薄汚い茶を纏った一匹の蚊がひっそりと息をしていた。

 

蚊と聞くと黒と白のしま模様のアイツを思い浮かべるが、どうやらコイツは別種らしい。ギンギンの目でスマホをスワイプすると、コイツは「アカイエカ」と呼ばれていることがわかった。

 

暗闇の中でどうやって僕を見つけるのか疑問だったが、コイツらは二酸化炭素や汗に含まれる乳酸などの成分を感知して近づいてくるらしい。人間が二酸化炭素を多く排出する場所は顔面に集中しており、耳元でやかましい羽音が聞こえるのは仕方のないことだそう。

 

 

 

全然仕方なくねぇ。ぶっ殺してやる。

 

憎悪を手のひらに塗りたくり、その上からティッシュを貼り付けてヤツの死角に慎重に回り込む。ティッシュの影をヤツに重ね、汗ばむ額を腕で拭う。

 

深く呼吸をする。膨張して慌ただしく放出される殺意を抑え、しかし決して鎮めるわけではなく、手のひらに集中し結晶化させる。

 

ヤツと重なる影は少しずつ小さくなり、影は黒く暗くなる。僕の手のひらの熱がヤツに伝わるほどに接近し、とうとう殺せる射程距離になった。

 

 

 

息を止める。結晶化した殺意が赤を通り越して白く発光している。今、ここで殺る。

 

 

 

バチィ!

 

 

 

 

 

けたたましい破裂音が鳴り響き、数秒が経過した。現在の時刻は深夜2時。これまでに2度、僕宛に騒音メールをした隣人は目覚めただろうか。

 

しかし今はそんなことを気にしている場合ではない。まずはこの手をどけて、ヤツの息が絶えているかを確認しなければならない。

 

汗ばんで手に張り付いたティッシュを何度か壁に押し付ける。ヤツをティッシュの中に収められるように、指の関節を曲げて内側に巻き込みながら離陸態勢をとる。

 

 

 

離陸。

 

 

 

 

 

プーン

 

 

 

 

 

こめかみに山脈のように隆起した血管が浮き出る。鼻息はフガフガと荒くなり眼は赤く染まり充血する。

 

殺意と憎悪に塗れ怨嗟する。4畳半のベッドの上で発狂し、天井に向かって人語ではない金切り声をあげる。ティッシュを手のひらに素早く装填し、見失ったヤツを誘き出せるように二酸化炭素を大量に吐き散らし、ヨダレを撒き散らす。

 

紛うことなきバケモノである。

 

 

 

僕は夏が嫌いになったのかもしれない。

 

 

 

あ、これが倦怠期ってやつか。

 

 

 

恋愛とは難しいものですな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【あとがき】

その後ヤツとの攻防戦を繰り広げ、3時過ぎにようやく床に着くことができました。先ほどまで寝よう寝ようと奮闘していたのが嘘みたいに、それはもうぐっすり朝まで眠れましたとさ。