ジェットバスが僕の性癖を歪ませた

太陽が地平線に吸い込まれていく。

オレンジ色の空に紫色の絵の具が少しずつ混ぜられ、藍色が、そして黒が、間違った分量出されて悪戯に溶かされる。

たちまち空のキャンパスは黒く染まり、世界はひっそりと寝静まる準備を始めるのだ。

だがそれに反抗するように、あちらこちらで光が煌めきだした。

 

夜がやってきた。

帷が下り、月が顔を出す。

天には星々が、地には街頭の光がポツポツと夜を彩り、長いショーが始まった。

 

しかし今日はやけに冷えるな。

冷たく乾いた空気が肌を刺し、じっとしていると反射的に身震いしてしまう、そんな寒さだ。

 

こんな寒い夜は、そうだ。

温泉に行こう。

 

思い立った刹那、タオルとフェイスタオル、下着とパジャマを大きめのトートバッグに突っ込み、ボコボコと穴の空いたサンダルを履いて折り畳み自転車に乗り込んだ。

甲高い金属の擦れる音が心地良く耳に入り、夜風が服の隙間に入り込んで熱を奪っていった。

 

 

 

僕は温泉が好きで、近所のスーパー銭湯にしょっちゅう行く。

夏の暑い日に行くのも好きだし、今日みたいな冬の寒い日も大好きだ。

自宅では決して味わうことのできない、両手両足を伸ばし大の字になって風呂を満喫する贅沢なひと時。

 

こんな幸せなことが他にあるだろうか。

この痺れる快感にたまらない興奮を覚えて、僕は自転車を月に数回、ヨダレを垂らしながら漕ぐのである。

 

 

 

自転車を漕ぐこと十数分、スーパー銭湯に着いた。

温泉マークのネオンが朧げに光り、夜を艶かしく演出する。

 

受付でリストバンドを受け取り、脱衣所で重い服を脱ぎ捨て生まれたての姿になる。

でっぷりとした腹を抱えたオヤジたちがのっそのっそと湯気の立つ方へと吸い込まれるのを見て、僕もその波に呑まれていった。

その光景は、出荷されていく家畜と酷似していた。

 

 

 

さて、温泉に来てまずやることと言えば、それは体を清めることだ。

頭にシャンプーを塗りたくり、フェイスタオルにボディソープと書かれたボトルのポンプを連打する。

そうして泡立った頭や体をガシガシと掻き、擦り、体中の垢を隅々までこそぎ落としていくのだ。

 

念入りに体の汚れを落としたら、いよいよ入浴である。

一番最初に入る風呂はやはり露天風呂であろうと決めた僕は、扉に手を掛け外に飛び出す。

直後、氷河期が突入してしまったのではないかと錯覚させるほどの凍えた冷気が全身を放射状に襲い、ただでさえ貧弱な僕の息子はミジンコくらいの大きさに萎んでしまった。

その哀れで痛いげな息子にベールをかけてやりつつ、周囲の目を気にしながら目当ての風呂へと向かう。

 

震える体を抑えながら、温泉の前に立った。

ゆらゆらと揺れる水面からは、白い煙が延々と空に昇っている。

月明かりはその煙に吸い込まれ、ぼんやりと発光していた。

その優美さに、思わず息を呑む。

 

見惚れるのも早々に、足先からゆっくりと浸かっていく。

くるぶし、膝、太ももと、慎重に体を風呂の中へと沈めた。

 

暖かい温泉が、冷え切った体を、息子を芯からほぐしていく。

甘い刺激が全身を駆け巡り、「あぁ...」と情けない喘ぎ声を漏らしてしまう。

顔の表情筋が重力に負け、とろんとだらしない顔をしてしまうのだ。

 

 

 

ひとしきり温泉を楽しんだ後は、お待ちかねのサウナタイムである。

灼熱地獄に自ら身を投じ、何をするわけでもなくただひたすらに俯き、焼けるような熱さに5分間堪えるのだ。

 

全身の穴という穴から汗が噴き出し、テレビの音が少しずつ遠ざかっていく。

幻覚なのか、時計の針がありえない早さで一周しているように見える。

精神と時の部屋のように、「サウナ」という場所では現世の何倍もの速度で時間が流れるようだ。

 

あと3分...

1分1秒が異様に遅く感じるこの空間で、あと3分も堪え忍ばなければならないことに絶望した。

体に纏わりつく熱が生気を奪い、額から大粒の汗をボタボタと落とす。

 

あと2分...

少しでも鼻呼吸をしようものなら熱波が鼻の粘膜を焼き焦がし、耐え難い激痛が走る。

息をするだけでも命がけなデスアトラクションに、僕を含めたオヤジたちは果敢に挑むのだ。

 

あと1分...!

長く暗いトンネルの奥から一筋の光が指す。

 

ーーーもうすぐゴールだ。

しかし油断は禁物である。

ここで意識を失っては、今までの努力が水泡に帰す。

僕は自分の胸を何度も何度も強く叩き、最後の1秒まで必死に堪えた。

 

5分!!!

今にも意識がぶっ飛びそうな僕は、般若の表情でサウナの外へと足を動かした。

最後の力を振り絞って地獄の扉をめいいっぱい押すと、扉は「ギギギギ」と鈍い音を立てながら現世の光を僕に浴びせた。

 

そのまま水風呂まで歩みを進め、かけ湯台の前に立つ。

汗でドロドロになった体に水をかけ、先ほどの温泉とは裏腹に勢いよく体を沈めた。

 

 

 

「んんあぁあああああっぁああああああっっっっっっ!!!!!」

「おっほぉぉおおおぅくわぁああああああぁああっっ!!!!!」

 

最近覚えたサウナだが、気持ち良さが桁違いだ。

灼熱を帯びたこの体をキンキンに冷えた水風呂が一気に冷やしてくれる。

水風呂が奪われた僕の生気を取り戻し、文字通り水を得た魚のようになっていた。

 

あまりの気持ちよさにガクガクと白目を剥いて絶頂している僕だが、オヤジたちはそんな僕を見て何を思うだろうか。

だが、そんなこと今はどうだっていい。

人の目を気にせず快楽に身を委ねる、それでいいじゃないか。

僕の黒い瞳は再び裏側へ隠れ、ゾンビみたいな顔で水風呂に愛撫された。

 

 

 

続けて外気浴をする。

先ほどは寒くて敵わなかった外が、今はどうだ。

体全体を心地良い熱の膜が包み込み、それが冷たい空気にじわーっと溶け出す。

体の輪郭が、まるで水彩絵の具のように滲んで曖昧になる。

 

マグマのように奥底からやってくる快感に抗えない、ダメだ。

またしても僕は白目を剥いてしまう。

ビチビチと魚のように体をくねらせて、情けない声を断続的に発する。

オヤジたちが戦々恐々とした顔をこちらに向けているような気もするが、そんなこと今はどうだっていい。

僕は快楽に身を任せ、肌を優しく撫でる夜風を嗜んだ。

 

 

 

サウナの一回戦が終了し、水を飲んで一息つく。

次は10分に挑戦してみようか。

10分であれば、水風呂の時に感じる高揚感はさっきの2倍だ。

20分であれば4倍、30分であれば6倍である。

 

フフフ、果たしてあの灼熱を5分以上も耐えられるだろうか。

しかし耐えれば耐えた分だけ、快感は増幅されて跳ね返ってくる。

皮算用で弾き出された解に不敵な笑みを浮かべ、オヤジたちの顔がますます強張るのが視界の隅に入った。

 

 

 

よし、そうと決まればサウナへ向かおう。

乾いた体で再び地獄の扉に手を掛けr.........ん?

 

浴場の隅に追いやられたひとつの温泉にふと目がいった。

椅子のように座るタイプの温泉で、腰の辺りからブクブクと白い泡が勢いよく放出されている。

 

「ジェットバス」である。

今まであまり入ったことのない温泉だが、今日はやけにそれが気になった。

 

オヤジたちが揃いも揃って白目を剥いているからだ。

これもきっと、スーパーでウルトラでミラクル的に気持ち良いのだろう。

 

しかしよく見渡してみると、この浴場には瞳の黒い者が異様に少ないように伺える。

公衆の面前だというのに、まったくしょうがない奴らだ。

呆れながら白く泡立つジェットバスにゆっくりと腰掛けた。

 

ブクブクとした柔らかい感触を腰にイメージしていたが、実際はそれよりも遥かに強い「ゴォーッ!」であった。

まるで滝に打ち付けられたかのような、重く鋭い打撃が強烈に腰を刺激する。

タイ式のマッサージのような力強さが、2つの噴出口から放出される水に込められていた。

 

 

 

ふむ、まぁ確かに気持ち良い。

しかし露天風呂やサウナほどの快感は得られないように思える。

いや、むしろ時間が経つにつれて、打たれているところに若干の痒みを覚えた。

 

その痒みは指数関数的に増幅し、1分も水に打たれていたら尋常じゃないほどの痒みが腰を襲った。

気持ち良いのは最初だけで、今はもうそれどころではなくなっている。

痒くて痒くて頭がおかしくなりそうだ。

 

波打つようにモゴモゴと唇に力を入れて堪える中、隣のオヤジをチラリと一瞥する。

どうして白目を剥いているのか、僕には全く理解できない。

 

 

 

そうだ!この強烈な水圧で患部を代わりに掻いてもらおう。

我慢ならない痒みを潰すために、僕は腰を少し横にずらした。

すると、ゴォーッ!と唸り放たれる水は患部のすぐ横をダイレクトアタックした。

 

「んっほぉおおぉっ!」

 

自分でも想定していなかった声が喉から飛び出した。

患部の痒みが取れた快感からではない、むしろその逆だ。

痒みが取れたと思いきや、その痒みの半径が大きくなってさらに広範囲に強烈な痒みが襲ってきたのだ。

時間経過と共に、広がった痒みはさらに強烈なものとなり、僕はたまらず腰を少し横にずらす。

 

「んんぁあああほっほっほぁぁあああ!!!」

 

痒みの半径がまた少し大きくなる。

それと共に痒みの強さも拍車をかけて増していく。

 

これは罠だった。

痒みを生んだ原因はジェットバスであり、この水に打たれている以上痒みのスパイラルから逃れることはできないのだ。

だが、このスパイラルから脱するのは容易である。

この椅子から立ち上がり、温泉から出て患部を掻きむしればいい。

 

 

 

しかし、なぜだろうか。

なぜかこの椅子から立ち上がることができない。

痒みを取り除けないどころか悪化してしまうことは頭でわかっているのだが、腰をくねくねと揺らしてしまうのだ。

 

 

 

そう、僕は痒みを求めていた。

 

「もっとぉ!もっとイジメてぇぇぇええ!!!!!」

「あぁぁああんっ!そこぉっ!」

 

自分でも驚くほど、僕はマゾだったのだ。

痒くて痒くてたまらない状況に、さらに痒みをプラスする快感がどうしようもなくゾクゾクと興奮してしまうのだ。

 

 

 

この短時間で僕はマゾの階段をマリオのように軽やかに駆け上がっていった。

ただ無機質に水を放出する椅子に、僕はここまで魅了され調教されてしまった。

隣のオヤジと同じように、僕もまた白目を剥いて快楽に溺れ、錯乱状態に陥っていたのだ。

 

腰から背中にかけて、快感の特急列車が駆け巡る。

痒い、堪える、痒い、堪えるを交互に繰り返し、背中に無数の小人が走り回るような苦痛を味わう。

だが、それが気持ち良い。

 

拳ひとつ分くらいの大きさから始まった痒みが、気づくと背中全体に広がっていた。

痒みの範囲が宇宙の膨張と同じ速度で広がり、もはや少し腰を横にずらす程度ではそのスピードに追いつけなくなっていた。

 

何とかして追いつくために、椅子全体を使い舐めるように腰を動かす。

噴出口を起点として、弧を描くように背中を動かす。

僕はジェットバスの中で、図らずしもチューチュートレインを踊っていた。

 

そのダンスは、カリスマ性を持たせるには十分すぎるほどのものだった。

怪しげに腰と背中をくねくねと揺らし、妖気に満ち溢れている僕。

只者ではないオーラを醸し出す僕を見たフルチンのオヤジたちは、ひとり、また一人と白目を剥いてこちらにエールを送る。

 

 

 

さぁ、踊り狂おう。

快楽がひしめき合うこの温泉で、理性のネジを外し存分に癒やされよう。

月が沈むその時まで。

 

僕がこの浴場のアーティスト。

僕とオヤジとの間に生まれる不思議な一体感が、湯煙と共に混ざり合っていった。

 

 

 

【あとがき】

ジェットバスから出た後にそれはもうむちゃくちゃに掻きむしったのですが、熊にやられたんじゃないかと思うくらいの引っ掻き傷が背中に彫られ、顔も背中も真っ赤っかになりました。