ウンコを取り巻く攻防戦

僕は昔から腹が弱く、しょっちゅう腹をくだしてはトイレに駆け込んでいた。腹の弱い者にとって一畳ほどのトイレの空間は聖域であり、テリトリーであり、心安らぐ憩いの場でもあった。

 

 

 

だが、皮肉にも学生時代においてトイレに行く、そしてそこでウンコすることを身内に悟られるのは僕にとってリスクの塊でしかない。

 

 

 

授業中に「先生!トイレ行っていいですか!」などと教師に懇願するとしよう。すると授業終わりには「ウンコマン」という思春期には死んでも呼ばれたくない二つ名を容赦なく叫ばれてしまうのだ。

 

学校とは社会、いや世界と言っても過言ではないくらい、学生にとってそれはそれは大きな環境であり、その小さな世界を生きる者に「ウンコマン」というプレートが張り付く恐ろしさを理解できるだろうか。

 

 

 

【2年2組 出席番号10番 おいかわ(ウンコマン)】

 

 

 

他の人間から僕はこのように見える。ウンコマンだ。ウンコをする男、ウンコマンの誕生である。

一度こうなってしまったら人権などあってないようなもの。スクールカーストにも属せない「別枠の人間」として皆に処理される。

さらにウンコマンと叫ぶ者は思春期真っ只中のヤツらときた。彼らにとってウンコマンは学生生活を刺激的にする恰好の的である。

 

 

 

「おい!ウンコマン!またウンコか?ギャハハ!」

 

「ウーンコ!ウーンコ!ギャハハ!」

 

「その...ウンコをするのがお好きなんですね」

 

 

 

待っているのは確実なる社会的死である。

どんなにこちらが「あれはウンコをしていたのではなく便座の黄ばみ加減を確認していただけなんだ」などと弁明をしようとも、一度ウンコマンと名付けられたが最後、話を聞いてもらえる術はない。

その悔しさに打ちひしがれ、癒しを求めて好きなあの子に話しかけても、その子の瞳には「ウンコマン」というスペシャルな称号がべっとりと張り付いているのだ。そして当然振られる。

 

 

 

そんな地獄のような異名を名付けられるくらいなら、ウンコを我慢すればいいと考えるのが普通だ。

 

しかしウンコが肛門を押し出す力は尋常ではない。肛門を締める括約筋をボブサップ並に鍛えていなければ、ウンコは音を持って体外へと簡単に排出されてしまう。

さらにウンコは時間経過と共に指数関数的に強烈なものとなり、20分もすれば肛門を押し出す力は100kgを優に超えてしまう。

授業時間は50分であり、我慢の臨界点に到達するのも時間の問題である。こうなればたとえ括約筋がボブサップであったとしても、肛門からとめどなく松崎しげるがスプラッシュされてしまうのだ。

 

 

 

そして万一ウンコが漏れようものなら、ウンコマンなんて異名だけでは済まされない。

名前だけであればウンコマンの流行りが廃ればその効力も自動的に消滅する。が、実際にウンコを撒き散らしたとなれば、その効力は成人してもなお履行されてしまうのである。

 

 

 

「あ!おいかわくん久しぶり〜!」

 

「中学の時の私、覚えてる?そうそう!同じ2組だったアケミだよ!」

 

「時間経つの早いよね〜、ホントにもうあっという間に...」チラッ

 

 

 

【おいかわ 20歳 脱糞経験アリ】

 

 

 

「あ...え!なんでもない!ちょっと用事思い出しちゃったからもう行くね!バイバーイ!」

 

 

 

待っているのは確実なる社会的死である。

だから授業中に手を挙げる勇気ったらもうない。万一の脱糞リスクを危惧し、人権を剥奪される覚悟を持ち、これから訪れる災厄を受け入れ、己の意思で、己の腕を天に、白旗を挙げなければならないのだ。

 

 

 

 

 

「...先生、トイレに行ってもいいですか」

 

ーーーアンパンマンでもなければスーパーマンでもない、何の能力も持たず、ただウンコする頻度が高かっただけの悲しき下痢便ウンコマンの爆誕である。

 

 

 

* * *

 

 

 

そんな暗黒の学生時代を過ごし、大学生になった僕。

大学生にもなるとウンコマンなどという稚拙な呼び名は消え去り、気兼ねなくウンコできる環境になった。

 

これは大変喜ばしいことであり、両の腕を天に挙げ、ウンコを捻り出しながら叫び散らしたいところだが、小中の9年間ウンコマンの呪いにかかっていた過去から抜け出すのは至難の業である。

 

公共の場でウンコをしてもウンコマンと指を指されることはもうない。頭じゃわかっちゃいるけれど、体は未だ呪いにかかったままであり、ウンコをする恐怖は計り知れない。

「ウンコは恥」という生命の理に反する思想を植え付けられてきた僕にとって、「人前でウンコをするのはおかしいことじゃない」と思うのは、天動説を信じろと言ってるのとほぼ同義なのだ。

 

 

 

「公共の場でウンコしているのを周りに悟られたくない」

これが今年22になる大学生の主張である。

 

 

 

とにかくウンコしていることを悟られないためには、誰にも気づかれず個室に侵入するところから始まる。

恐る恐るトイレの入り口から顔を覗かせ、個室が空いているかを確認する。ここで変な動きをとれば、「あ、コイツ今からウンコしようとしてるな」と小便ユーザー達の嘲笑の的にされてしまう。

 

 

 

空室確認ヨーーーシ!

 

小便ユーザーが背を向けて顔を確認されない今がチャンスだ。音を立てずに抜き足差し足忍び足。令和の忍者が誰かと問われれば、まさに今この僕であろう。

 

 

 

 

 

ガチャ

 

 

 

 

 

フ...ハハ...ハハハ...フハハハハハ!どうだ!俺はやってのけた!顔を確認されずにここまでやってきたぞ!見たか!見たかオマエラ!フハハハハハ!!!

 

便座のフタを開ければたっぷりと水が貯水されており、文字通りここはオアシスである。先の一戦でちょうど喉も乾いててラッキーこの上ない。

 

さて、一息ついたところでパンツを下ろして早速ウンコを捻り出したいところだが、まだ僕にはやらなければいけないミッションがある。

 

 

 

それは「ウンコの音を聞かれてはいけない」だ。

 

 

 

個室に入ったことで匿名性は確保されたが、いくら顔が隠れていてもウンコの音を聞かれるのは普通に恥ずかしい。

天井吹き抜けの個室は音の反響がすこぶる良く、それはそれは綺麗な三重奏が僕の肛門から奏でられ、さらに着水時にもバスドラムのような爆音を発し、まったくたまったもんじゃない。

 

是が非でも肛門交響を防がねばならないが、文明とは本当に素晴らしい。人が人であり続けるための工夫は先代の知恵によって既に凝らされていた。

 

 

 

『音姫』である。

 

 

 

川のせせらぎが爆音で流れることによりウンコの音をカットしてくれるシンプルな機械。機能自体は実に原始的であるが、この機械はひみつ道具並に革新的な発明であると断言できる。

 

ポチッとボタンを押すだけで、あとは思う存分排泄に勤しむことができる。こんな素晴らしいことがあるだろうか。そして公衆の面前でするウンコだ。キャンプ中のご飯みたく2割マシで快感を味わえること間違い無しである。

 

 

 

さてさて、それでは決壊寸前の肛門をかっぴらいて快感の海へとダイブしたいところだが、実のとこ問題はまだ残されているのだ。

 

これ以上何か問題があるのかと懐疑的に思う人もいるだろう。音姫によってウンコの存在は消され、まず間違いなく聞かれることはない。それは確かにそうなのだが、音姫自体の存在が周知されたことにより、問題は高度な心理戦へと昇華した。

 

 

 

音姫はウンコをかき消すための音。そしていつも決まって再生されるせせらぎ音。

少し考えてほしい。これはつまるところ、音姫を流している間「今私はウンコしてますよ」と知らせているようなものなのだ。

ウンコの存在を音によって消せる機械は、皮肉にもその機械の音によってウンコの存在を逆に知らせるというパラドックスを生み、罠になっていたのである。

 

 

 

トイレの一角から爆音でせせらぎ音が流れたらあなたはどう思うだろうか。その思考プロセスはこうだ。

 

 

 

①誰か個室に入ってんな

②コイツ今ウンコしてんな

③ウンコの音を聞かれんのが恥ずかしいんか

④笑

 

こうに決まってる!!!

 

 

 

音姫を鳴らすとは脱糞臨戦体制をとっていると敵に知らせ、さらにはこちらの心情までをも悟られる最悪手なのだ。安易に音を消せると駆け込み寺のように入ったが最後、返り討ちにされてしまうのが音姫の実情である。

 

 

 

となれば、残された手は一つしかない。

 

 

 

トイレの水を流す音に乗じてウンコをするのだ。

 

 

 

トイレ側面のレバーに手をかけ、腹部に力を入れ、レバーを下ろすと同時に肛門を全開させる。流水音がスタートの合図を知らせ、トイレの口が勢いよく水を飲み込む数秒間、僕は全力でウンコを捻り出す。送り込まれるウンコ。渦を巻いて放出される水。流れに乗り暗闇へと消えていくウンコ。すかさずやってくるウンコ。

 

 

 

その様は、さながらウォータースライダーである。

ケツの下で催されるウォータースライダーを、鬼の形相で遊戯していくのだ。

 

 

 

ウンコとは、人の尊厳を守るための命懸けのスポーツである。ウンコ中は睡眠の次くらいに無防備な姿であり、いつ敵襲が来てもおかしくないため皆も用心するように。それでは。