僕はただ、美容院のマスターとお喋りがしたかっただけなんだ

モテたい。
とにかくその一心だった。



一匹の男として生を受けて21年。
今のところ僕にはガールフレンド、つまるところ彼女がいない。
21年、なんと21年もの間だ、一度もだ。

もし僕が犬であれば、2回は天に召されている。
ネズミであれば10回、カブトムシであれば250回は死んでいることになる。

明らかに命を軽んじていて、極めて遺憾だ。
が、それと同時に本当に人間でよかった。



鼻クソを丸め、いたずらに時間をドブに捨てる21年。
鼻クソを丸め、それを口に運ぶ、それだけの10代だった。

右を見て、左を見て、最後にもう一度だけ右を見る。
すると渡ろうと思った信号は点滅を始め、途端に赤に変わった。

しばらくして信号が青に変わる。
右を見て、左を見て、最後にもう一度だけ右を見る。
再び点滅が始まり、直後赤に変わる。

気づくと21歳になっていた。

いつまでも渡ることのできない信号で足踏みをしていると、幼馴染はひとり、また一人と彼女を作って僕から離れていく。
その報告を聞くたびに、僕は彼女というものがいよいよ本当にファンタジーの世界の住人なのではないかと疑い始めた。



”彼女”は何者かが作った僕への幻影であり、幻想だった。
それをいつも目の前にぶら下げられて、僕は一心不乱にそれに追いつこうとするが、いつまで経ってもその幻影との距離を縮めることはできない。

常に一定の距離を保ったまま、幻影は僕を嘲笑する。

その光景は、まるで砂漠の蜃気楼のよう。
ありもしない水を求めて彷徨う旅人に、気づくと僕はなっていた。



太陽が昇り、一帯が茹だるような暑さで覆い尽くされる。
視界はぐらぐらと揺れ、空からは針のような鋭い日差しが肌を刺す。
体は汗ばみ、ぐちょりとした嫌な感触が服の内側に張り付く。

太陽が沈み、今度は氷のように冷たい空気が立ち込める。
耳と鼻先がみるみるうちに赤く染まり、少しずつ手の感覚が消えていく。
吐く息が白くなり、それは狼煙のようにぼうっと空に昇っていく。

そんな過酷な世界の中で砂に足を取られながら、21年彷徨い続けてようやくわかった答えがある。



ーーーそうか、水なんて最初からどこにもなかったんだ。



その答えに気づいた時、僕は砂に埋もれていた。

手足がピクリとも動かず、ただじっと、砂に埋もれていた。
だらしなく開いた口に砂が入り込む。
ジャリジャリとしたそれを、吐き出すことも飲み込むこともできなかった。

冷たい風が穏やかに肌を撫でる。
太陽が地平線の彼方に吸い込まれていき、赤や黄、オレンジや紫などの色が混ざり横に伸びている。
月は太陽が沈むのを待ち切れず、東の空でおぼろげに光っている。
そうして世界はひっそりと眠りにつき、空に浮かぶ星はやかましくコーラスを奏でる。

その光景を見た僕は、少しだけ笑い、その場で息絶えた。



この惨劇を見て悲しみに暮れる読者もいると思うが、今しがた書いた出来事は全くの”ノンフィクション”なので安心してほしい。



さてそれはそうと、モテるためにはまず何をしたらいいのだろうか。
モテたためしがない僕には、これは非常に難しい問題である。

合っているかどうかは別にして、今頭の中でパッと出てきたのは容姿と性格だ。

容姿。容姿と言っても何も顔だけではない。
髪型や服装など、改善することのできる部分は大いに存在する。

また性格。
これは根本から弄ることはできなさそうだが、表面を取り繕うだけならそこまで難しくなさそうだ。

以上のことから性格は後回しにして、とりあえず容姿の一要素である髪型を整えることにした。
髪型なら美容院にでも行けば解決するし、お金も時間もそれほど必要とせずモテに一歩近づけるのが素晴らしい。

鼻クソを丸めながら、僕は浮き足立つ思いで美容院に向かった。



美容院につくと、一人のマスターが案内してくれた。
白を基調とした清潔感のある店内で、椅子に座ると目の前には大きな鏡と、その周りに埋め込まれたライトが煌々と僕の顔を照らす。

初めての美容院に、心が躍る。
無理もない。数十分後にはオシャレな髪が手に入るのだから。

美容院というと、マスターがあれこれと話しかけてくるイメージだ。
中にはそれが苦手という人もいるが、僕はむしろ矢継ぎに話してくれた方が気まずくならないので助かる。

もちろん会話のネタは昨日寝ずに考えてきた。
政治、宗教、経済、あらゆるジャンルから矢が飛んできても受け答えられるよう、四股を踏んで臨む。

「今日はどんな感じにしましょうか」
「清潔感のある髪型でお願いします」

自分に似合う髪型がわからない人は、この構文を使えば万事解決である。
世のマスターはこの構文の意味を各々で汲み取り、僕たちに素敵な髪型を与えてくれるのだ。

オーダーをウインクで伝え、僕はエプロンに袖を通し椅子に体を預ける。



ーーーさぁ、こい。
名前、年齢、職業、住所、家族構成、血液型、ホクロの数、性癖、なんだって答えてやろう。
マスターの口から放たれる矢を全身で受け止めてやろう。

エプロンの中でモゾモゾと体をくねらせる。
ハサミの感触が髪越しに伝わってくる。



チョキチョキチョキチョキ......

チョキチョキチョキチョキ......

チョキチョキチョキチョキ......

チョキチョキチョキチョキ......



..........あれ?

あれ、あれれ?

おかしい、さっきからマスターが全く喋らない。
「今日はどんな感じにしましょうか」と言葉を発したのを最後に、喋る気配を見せない。

鏡の方にチラリと視線を移す。

マスターはじっとハサミの先端を見て散髪に勤しんでいる。
こちらの熱い視線に気づくことはなさそうだ。

散髪の小気味良い音が広い店内に響く。
それ以外のノイズはまるでなく、やけに閑散としていた。

僕と、マスターの二人きり。



どうしよう気まずい。
何か見えない圧に押し潰されそうになる。

気の利いた会話ができないかと思考を巡らせるが、守備に徹しすぎたために攻撃の術は一切持ち合わせていなかった。
徹夜で得た数多の防衛策は水泡に帰し、僕はただ口を閉ざすことしかできなかった。



「罠」だった。

美容院はマスター側から話しかけてくるというステレオタイプな考えが仇となり、マスターの術中にまんまとハマったのだ。
「髪は美容院で切ってもらえばモテる」という安直な考えが、今このような惨事を生んでいるのだ。

そして、もう二度と鏡を見ることはできない。
次マスターの顔を見たら最後、僕はメデューサの力で石にされてしまう。
先ほど鏡を一瞥したせいで、すでに身動きひとつ取れないのがヤツがメデューサである確固たる証拠だ。

マスターの眼光はギロリと鋭く光り、こちらを睨みつけている。
僕は鏡を見ないように、額に大粒の汗を掻きながら俯く。

しかし、時間が経てば経つほど僕の体はさらに固く、凍りついた。
ヤツはメデューサの力を得るばかりか、こちらが視線を合わせずとも少しずつ石化する能力までを会得したらしい。

しかし、このままではいずれ石化が完全に進行し、死に至るのも時間の問題だろう。
どうにかしてこの状況を打破しなくてはいけない。

死を意識した時、視線の先にある物が見えた。



鏡の下にあるラックの中に、雑誌が見えたのだ!

一筋の光明が差した。
僕は鏡を見ないように必死に視線を下に逸らし、ガチゴチに固まった腕を千切れんばかりに伸ばしてその雑誌を手に取ろうとする。

直後、マスターの鋭い眼光が背中を刺す。
腕の動きが鈍くなり、言うことを聞かなくなる。

そう、ここはもう穏やかな美容院などではない。
メデューサの根城なのだ。

フハハ、ハハハハハ!

ハサミの散髪音が、ヤツの不気味な笑い声に聞こえる。
心臓の鼓動がバスドラムのように重く、そして強く脈打つ。
無理もない。死がすぐそこまで近づいているのだから。

だが、今はこの死と隣合わせの状況を打破する千載一遇の大チャンス。
僕は決死の覚悟で、この鉛のように重い腕を伸ばし、伸ばし、伸ばし、伸ばし、伸ばし...!



「ではシャンプーをさせていただくので、あちらの席までご移動をお願いします」



な、なっ、なっ、なんだってぇぇぇぇぇえええええぇぇぇぇえええええ!?!?!?



完全に足元を掬われた。
ヤツは僕の一挙手一投足のすべてを見透かしているのか!?
恐ろしい...なんて恐ろしいマスターなんだ!

ビキーーーーーン!!!

マスターの声に呼応するように、ガチゴチに固まっていたはずの僕の石化が解ける。
「解放された」と思った刹那、今度は抗えない謎の力によって奥の処刑台に移動させられた。

このメデューサ、なんとサイコキネシスまで会得していたのだ。
僕を殺すなんて、赤子の手をひねるほど容易だというのか。
人間の革が貼り付けられたであろう艶やかな椅子に僕は無理やり座らされ、たちまち石化させられた。



「それでは倒していきますね」ウィーン


なっ、なななな、何が起きているのだッ!!!!!


なんとその椅子は、あろうことか仰向きに倒れ始めたのだ。
今まで僕は出先でシャンプーをされる際、仰向きに倒されるなんて経験は一度足りともなかった。

殺される...間違いなくここで僕は殺される。

一体どんな残酷非道な方法で処刑させられるというのだ。
絞殺か、惨殺か、殴殺か.......
額から脂汗が滲み出る。

椅子のリクライニングは終わり、僕は身動きひとつ取れなくなる。
敵にあられもなく腹を向け、いつでも殺される覚悟はできていた。

すると、今度はヤツは僕の顔に白い布を被せたのだ。

白い布をかける、それは遺体に対して行う「打ち覆い」であった。
それは、この状況下でもまだ信じたかった「ただの散髪」を真っ向から否定する行為であり、蜘蛛の糸を切らされた僕は唇を噛み締めた。



僕はただ、美容院のマスターとお喋りがしたかっただけなんだ。



お父さん、お母さん、親孝行できなくてゴメンよ。
この罪は、きっといつか償うからさ。
あと僕のパソコンの「資料」っていうフォルダは本当にタダの資料だから開かなくて大丈夫だよ。



マスター、いやメデューサよ。さぁ、僕を殺してくれ。
もし生まれ変わることができるのなら、次は鳥になってこの大空を羽ばたきたいな。



さぁ...............










【追記】

ただの散髪でした。