PayPayを知る。世界が色づく。

「温めますか?」
「はい、お願いします」
「袋はお付けしますか?」
「はい、お願いします」
「お箸はお付けしますか?」

変わらない日常。
退屈で、惰性的な毎日。

仏頂面の店員が機械的に業務をこなす。
無駄のない必要最低限の動きで唇を動かし、言葉を発する。
乾いた声が耳に入り、僕もまたその店員の声にプログラム通りの返事を重ねた。

「はい、お願いします」

僕の返事を聞くや否や、店員はこちらを見ようともせずカウンターの下から箸を取り出し、商品の横に放るように置いた。

「合計で430円になります」
「じゃあ、PayPayで」
「失礼致します」

店員がバーコードリーダーを僕のスマホに重ねる。



『ペイペイ♪』



「あアああっアッッんッッッッぁうぅあッッッッッッッッttttttt!!!!!」
「はうわっぁああああッッッッッんんんんんッッッ!!!!!」
「んんななあぁあああああああああ!!!!!!!!!!!!!」



脳が、震える。



たっぷりと水を含んだスポンジを絞るかのように、脳の繊維ひとつ一つからドーパミンが溢れ出てくる。
たちまち視界がぐらつき、眩い照明に照らされた店員の顔が道化師のように白く染まる。

ボタボタと脳汁が滴り落ちるのを感じ、膝をガクガクさせながら床にへたりついた。
口元の裂け目から湧き出るヨダレが小川を作り、履いていたズボンから生暖かい温もりを感じた。

そうして情けなく声にもならない音を断続的に発しながら、僕はその場で意識を失った。



ーーーいつからだろうか、PayPayの電子音でキマる体になってしまったのは。





世間では、僕のような人間を「Z世代」と呼ばれる世代に分類するらしい。
生まれてすぐにインターネットの海に放流され、情報の荒波に呑まれる、そんな世代。
新聞やテレビから離れ、Webメディアから情報収集する民族が、僕たちZ世代だ。

さらには電話、メール、音楽、写真。
こういったものがひとつの小さなボディ「須魔捕(スマホ)」に取り込まれ、指を動かすだけで事足りるようになる。

しかし、僕が小さい頃はまだスマホが普及しておらず、遊ぶ時は電話帳で友人の家にかけていたし、写真はDSiというゲーム機に備え付けられた、アホほど画素数の低いカメラで撮っていた。

そんな少年時代を送っていたZ世代の僕だが、中学に進学するとスマホを買い与えてもらい、物理的な重量に開放された僕は翼が生えたかのような爽快感を覚えたのだ。

スワイプひとつであらゆる娯楽を楽しめ、分厚くて煩わしい電話帳を開くことも、顔を変形したりお絵描きができる意味のわからない機能が付いたDSiのカメラを起動することもなくなった。

日常がスマホの登場によって煌びやかに彩られ、毎日その小さな窓を覗いて他人の世界を見るのが楽しみになったのだ。



だが、そんな日々重量から開放されていく生活を送る中で、ひとつだけ「レス」できないものがあった。

「キャッシュレス」だ。

現金を持ち歩かず、スマホのみでの決済を可能とする魔法のような支払い方法。
いつでもどこでも気軽に決済ができ、スマホの中に常にATMがあるような状態だ。
これにより、財布の残金を気にするストレスから開放されるのだ。

これぞ究極のレス。
これ以上のレスがあるだろうか。

現金を持たずして決済を可能とする錬金術。
江戸時代の人間がこの光景を見たら、その瞳には石板を掲げて商品を盗むキテレツ窃盗犯のように映るだろう。


...しかし僕はZ世代、いやZ戦士の身でありながらも、現金至上主義のためにキャッシュレスに移行することができなかったのだ。
財布を開いて一枚一枚丁寧にお金を取り出す快感は、いくら便利な世の中になっても抜け出すことのできない僕にとってのドラッグだった。

小銭同士がぶつかり合い、小気味良い金属音が鳴る快感。
札が擦れ、雪を踏み締めた時に感じるあの快感と同等、もしくはそれ以上の快感が指先に伝わる。
直後、ビリッとした電撃が脳に走り、決済の度に僕は白目を剥いてしまう。

そういうワケがあり、無機質に決済をするキャッシュレスがどうしても生理的に受けつけなかったのだ。



そんな中、先日部活の合宿で北海道旅行に行った。
そこで友人に、PayPayというアプリを勧められたのだ。

「このアプリがホント便利で、現金を持ち歩かなくても支払えるんだよ」
「でも俺、キャッシュレス好きじゃないんだよね」
「とりあえずさ、1000円だけでもチャージして使ってみたら?」

1000円。1000円か。
うーん、どうしようか。

一度PayPayにチャージしてしまうと、そこから取り出すことはできなくなる。
仮にいくらか使って32円ほど余るとする。
しかしそこで利用することをやめれば、僕は32円分損することになってしまうのだ。

32円、うまい棒3つ分だ。
蒲焼さんが3つ、カートゥーン調の黒猫が不気味に笑うガムが3つ買えてしまう。
スゴイ損失である。

利用を止める日が訪れたら、僕は駄菓子屋の前で天を仰ぎ悶絶することだろう。
そんな哀れな男を見て、駄菓子屋のおばあちゃんは優しく微笑んでくれるだろうか。

思考の山手線が、けたたましい音と共に発車しガタゴトと体を揺らす。
いつまでも降車できずにドアの前で腕を組んでいると、友人の声が遠くから聞こえた。



「...い」



「...おーい」



「おいってば」

「あ、ゴメン...ちょっと考えちゃった」
「悩むくらいならやってみようぜ。PayPay、いいぞ」
「そうだなぁ...よし、わかった。やってみるよ」

相変わらず気は乗らなかったが、言われるがままに1000円チャージした。
画面に「利用可能額1,000円」と表示される。

まったく実につまらない画面だ。
物体としてではなく、ただデータとして1000の文字が浮かび上がっている。
銀行にあるお金がPayPayに移っただけなのだが、酷く損をした気分になった。

小銭が重なり合う音。札の擦れる音。
楽しかった思い出は遠い過去のものとなり、淡白でモノクロな世界が北海道の雪景色と共に眼下に広がった。

それでもPayPayにチャージした以上、どうにかしてこのデータをゼロに近づけなくてはならない。
僕は重い足取りで、ホテルのすぐ目の前にあるセイコーマートというオレンジ色のコンビニに入った。

かじかむ手を口の前で擦り合わせ、溶かしていく。
じんわりとほぐれていき、少しずつ手の感覚が戻ってきた。

店内を歩き回り、視界に飛び込んできたパスタと缶ビールを手に取りレジに向かう。
カウンターの向こうには、仏頂面の店員がロボットのように立っていた。





そこから先のことはよく覚えていない。
目が覚めると僕はホテルの部屋で横になっていて、口元には白い跡がついていた。

手には冷めたパスタとぬるい缶ビールが入った袋を持っていて、もう一方の手にはスマホが握られていた。

その画面には「利用可能額3,570円」と表示されていた。