突然だが、もういっそのこと人間であることを辞めたい。
犬や猫のように、オスもメスも関係なく全身が毛むくじゃらだったらどれほど楽だったでしょう。
街を歩くすべての人間が、「毛」という名の服を身に纏っていたらどれほど幸福だったでしょう。
米津玄師のLemonみたいな入りで申し訳ないが、毎日毎日「何を着ていけばいいか」と頭をこねくり回して生きていくことに、僕は疲れた。
楽になりたい。このまま鳥になって大空を羽ばたきたい。
小学生、あの頃はよかった。
宿題が少ないからとか、自由な時間がたくさんあるからとかの理由で「小学生はよかった」という人が多いと思うが、そういうことじゃない。
ただ、ただひとつ、服のことを考えなくてよかった。
ピカチュウがデカデカとプリントされてる服を着ようが、毛玉がアホほどついてるセーターを着ようがお咎めなし。
とにかく自由だった。
何を着ても誰からも白い目で見られない。
こんなに素晴らしいことがこの世にあるだろうか。
何も恐れることがなく万能感に満ち溢れた僕は、何者にでもなれる気がしたのだ。
中学生、高校生、あの頃もよかった。
烏合たちの白い目が一人、また一人と開眼する中、学校は「制服」というチートアイテムを僕に授けてくれた。
ジロジロと互いの容姿を舐めるように凝視し合う世界であっても、これに袖を通しておけばあら不思議。
烏合たちはその目を瞑るではないか。
ドラえもんでいうところの「石ころぼうし」。
ひとたび身につけると、途端に誰からにも目を留められなくなる。
それから制服に何度も助けられながら中学、高校と進学し卒業した僕。
そしてこれから始まる真っ白なキャンパス生活にうつつを抜かしていたある日、僕は思い出してしまった。
ヤツら(オシャレ)に支配されていた恐怖を...
だいたい、服ってなんのために着るのだろうか。
それは温度調節であったり、身体防護であろう。
オシャレがあって服の機能があるのではなくて、服の機能があってその上にオシャレがある。
とどのつまり、オシャレってのはオマケなのだ。
そんなオマケ要素、してもしなくても本来は何の問題もなかったワケである。
ところがどういうわけか、「この色にはこれが合うよね〜!」だとか、「トップスがこれならアウターはこれがオシャレ!」だとか、どこのどいつが最初に言い出したのかは不明だが、意味不明な横文字を並べてペラペラと語り出す輩が現れ出した。
そしていつしか、オシャレでない、いわゆる「ダサい格好」をしている人間は、魅力がないだの清潔感がないだのと白い目を向けられ、挙句の果てには自信がない、向上心がないと人格否定される始末。
僕は右も左もわからず、途方に暮れてしまった。
けれど、服に罪はない。
服はただそこに存在してるだけで、僕に何の害も与えてないからだ。
というか、むしろ彼らは被害者である。
そう。罰するべきなのは、「オシャレ」という概念を作り出したヤツら。
最初は誰のものでもなかった場所を「ここは俺の土地だ!」と言い張るのと同じように、何の罪もない服たちを「これはオシャレ!これはダサい!」と身勝手な価値観で決めつけ差別している。
その実にとんちんかんな価値観が、服を、そして僕を縛り苦しめている。
オシャレのセンスがない僕は、誰かが作ってくれた「オシャレ物差し」を一ミリ単位で刮目し、日々何を着ていこうかと思考をリニアモーターのように巡らせるのだ。
この色にはどんな色がよくてどんな色がダメなのかと、このトップスにはどんなアウターがよくてどんなボトムスがダメなのか、と要らぬエネルギーを使い、その物差しのメモリの中でかろうじて見つけた服に、ぎこちなく袖を通さなければならない。
もう、義務教育のひとつに「オシャレ」という科目を切実に追加してほしい。
「体型顔面別服装事典」という教科書を国の税金から作成し、全国の学校に寄贈してほしい。
そんな鬼畜極まりないオシャレだが、オシャレというものは少々難しすぎやしないだろうか。
色の数だけ服もあると思うが、僕たちが見分けられる色の数は大体100万色くらいあるらしい。
それでさっき軽く調べてみたのだが、日常的に着る服は、トップス、アウター、ボトムス、そしてシューズの4つがあって、それらを組み合わせて着ることではじめて「服を着る」ということになる。
また4つの服にはそれぞれ種類があって、トップスが約100種類、アウターが約200種類、ボトムスが約100種類で、シューズが約200種類くらいあるそうだ。
つまり、色も含めたそれぞれの服の種類は、トップスが1億、アウターが2億、ボトムスが1億、シューズが2億あるということになり、1億×2億×1億×2億で、色もそれぞれの服の種類も含めた組み合わせの総数は、実に400000000000000000000000000000000通りのパターンが存在する。
国から制服が支給される法案ってありましたっけ?